天正8年(1580年)11月20日
加賀国 小立野台地(現在の石川県金沢市小立野)
その丘からは、加賀の町並みが一望できた。
空は高く澄み渡り、雲一つない快晴である。
初雪が訪れる季節を迎えていたが、その日は小春日和だった。
丘を駆け抜ける爽やかな秋風が、男を高揚させていた。
北からは雄大な浅野川が、南からは町に寄り添う犀川の穏やかな流れが見てとれた。
二つの大河が流れ注ぐ日本海には、柔らかな夕日が差し込み、男を和ませた。
男は暫く日本海を見つめていたが、やがて反転し、東を睨んだ。
男の睨むその先は、隣国 越中国(現在の富山県)であった。
色鮮やかな紅葉に包まれた(くるまれた)峰々の遥か先には、砺波平野が、うっすらと見てとれる。
「此度の戦で、加賀の敵対勢力を抑えることが出来た。」
「これからは、越中にも、目を配らねば ならぬな!!」
その視線は、早くも次を見据えていた。
白袴に愛用の小太刀を携え、金糸が織り込まれた紫紺の陣羽織には、白地で誂えられた、丸に三つ引き両の家紋が、誇らしげに輝いていた。
男の眼下には、周囲3kmにも及ぶ、広大な砦址が拡がっていた。
北陸における、一向一揆、最大の活動拠点、尾山御坊であった。
この北陸地方は、昔から、宗教信仰が盛んな土地で、特に、ここ加賀国では、時の守護大名、名門・富樫氏を攻め滅ぼし、以来100年間に渡って、百姓中心の支配体制が確立されていた。
その百姓を巧みに操り、援助をし、門徒として入信させ、一揆などの軍事行動を起こさせる、一連の役割を果たしていたのが、この尾山御坊だった。
尾山御坊には、本拠地の石山本願寺(現在の大阪市)から、幹部、責任者の大坊主が派遣され、宿坊や寺院が建てられたが、それらの宗教施設を守るように、外堀、内堀、柵、櫓、橋、などが、各所に設けられ、侵入者を阻む、鉄壁の軍事要塞が築かれていた。
その尾山御坊を、この春、激闘の末に陥落させ、100年間にも及ぶ、農民支配体制に、終止符を打たせたのが、この丘の上の男であった。
男の名は佐久間玄蕃盛政。この時、26歳
歴戦の兵(つわもの)が揃う織田軍団に在って、主君信長が、その力量を認め、絶大な信頼を寄せた、若き侍大将である。
仁王立ちをすると、身の丈、6尺3寸(現在の190cm)にも迫る、その堂々とした体躯には、生気が漲り(みなぎり)、より一層、溌剌(はつらつ)として見えた。
この11月20日は、盛政にとって、特別な一日となった。
主君 織田信長から、感状と書状が届いていたのだった。
②へ続く