織田家の筆頭家老・柴田勝家の甥。玄蕃允(げんばのじょう)を称した。
佐久間玄蕃盛政は、織田家が各地で繰り広げた戦で数々の武功を挙げた。
戦では勇猛果敢さと鬼神的強さから、叔父の柴田勝家(鬼柴田と呼ばれた)とともに、鬼玄蕃(おにげんば)と呼ばれ敵から恐れられた。
当時の織田家中では、出世が神速で、居並ぶ者は秀吉ぐらいであった。
日吉玄蕃という言葉も残されている(人たらしの秀吉・剛毅一直の盛政という意味)
やがて叔父勝家が、信長から北陸方面の総司令官に任命され、越前国(現在の福井県)の国主となると、盛政も寄騎となり叔父を支えた。
あくまでも盛政の主君は最後まで織田信長である。
織田信長は、その生涯において、実に90回にも及ぶ戦をしたが、その中でも最大の抵抗勢力となったのが、一向一揆であった。
とりわけ北陸地方の一向一揆勢力は手強わかった。
佐久間玄蕃盛政は、およそ100年間続いた一向一揆(一向一揆の本拠地だった加賀国の一向一揆)を制圧し、信長から感状を賜り加賀国(現在の石川県金沢一帯)の統治を任された。
一向一揆の軍事拠点だった尾山御坊を解体、その地を「金沢」と改め、金沢城を築城、初代金沢城主となった。
その後、主君信長が本能寺の変で横死、織田家で後継者争いが勃発。
織田家中は、家老筆頭の柴田勝家と羽柴秀吉に派閥が分かれ、賤ヶ岳の戦いの引き金となった。
盛政は一貫して叔父勝家を盛り立て、その賤ヶ岳の戦いでは羽柴軍の陣地を急襲する作戦を進言した。
しかしこの作戦は、三段構えで対抗する敵陣の、ど真ん中を刔る(えぐる)「中入りの戦法」と呼ばれる一歩間違えば挟み撃ちに遭う危険な戦法だった。
百戦錬磨の将と呼ばれた勝家も熟慮を重ねたが、盛政の熱意を受け、敵陣急襲の許可を出した。
盛政の作戦は見事に成功し、羽柴軍の中枢だった中川清秀軍を殲滅させて砦を制圧。
勝ち目が無いと悟った羽柴軍は敗走する者が後を絶たず、隣りの賤ケ岳砦も陥落間近だった。
しかし、ここで想定外の事態が起きた。
秀吉の予想外の帰還だった。(勝家側に味方した織田信孝をけん制するため、自ら兵を率いて岐阜城を目指した秀吉だったが、局地的な大雨に遭い川を渡れず、大垣城で足止めを喰らっていたため、幸運にも賤ヶ岳へ戻ってくる事ができたのであった。)
その後、盛政軍の後方を支援していた前田軍(前田利家・利長父子)の裏切りが発生
統制がとれなくなった盛政軍は敵中に孤立してしまい、掴みかけた勝利も水の泡となってしまった。
盛政はそれでも、再起を図ろうと、自国の金沢城を目指したが、武運拙く、秀吉の前に突き出され、捕らわれの身となった。
その秀吉は盛政の縄を丁寧に解き、手足を擦りながら、「盛政殿。此度は、戦ゆえ申し訳ござらん。」と穏やかに見つめながら丁重に声をかけた。
秀吉は、ともに織田家の出世頭であり、武勇・実直・頭脳明晰な盛政を尊敬し、いつか自分の右腕になって欲しかった。
秀吉は、「この先、九州を平定したら肥後国(現在の熊本県)を与えるゆえ、わしの力となってはくれぬか。」と、盛政に誘いをかけた。
しかし、この好待遇にもかかわらず、盛政は高笑いしながら
「有難いお言葉でありますが、私を助けて国なんぞ与えたら、私は力を蓄え後に必ず秀吉殿を討ちまする。恩を仇で返すような武士にはなりたくない。その前に柴田の叔父から戴いた恩を忘れる事はできませぬ…」
と言い秀吉の誘いを断った。
それでも、諦めきれない秀吉は何度も誘ったが、答えは同じであった。
ついに諦めた秀吉は「盛政殿、ならば、せめて武士らしく切腹を」
と言うと盛政は
「秀吉殿、願わくば、大紋を染め抜いた紅裏(もみうら=真紅の裏地)の小袖(こそで)に、香を焚き込めた白帷子(かたびら=麻の着物)を賜りたい。それを着て人生最期の風流を尽くしとうございます」
さらには
「わざと縄を打たれた姿で京の市中を引き回され、あれが世に聞こえたる鬼玄蕃か、と見世物にしたいのです。そうすれば秀吉殿の威光も世に響き渡ると存じます。それこそが、我、佐久間玄蕃盛政の一世一代の晴れ姿である。」
と、罪人として斬刑に処せられる事を願ったのだった。
この提案を承知した秀吉は、さらに盛政を気に入り再度、家臣に誘ったといわれている。
早速秀吉は一流の職人に着物を作らせた。
「盛政殿どうじゃ!この小袖は!」と得意げに見せた。
ところが盛政、「仕立てが気に入らぬ。戰場の大指し物のようにもっと派手にしてくだされ。」と作り直しを願った。
秀吉は、「武辺の心得を忘れぬ者よ」「最後の最後まで、ワシを困らせよる。」と笑みを浮かべ、職人に作り直しを命じた。
周囲にいた秀吉の家臣は盛政のその堂々とした姿に震えていたという。
そして天正11年(1583年)5月12日、秀吉は最も信頼のおける家臣、浅野長政(秀吉正室・おねの義弟)を盛政の処刑の検使役(見届け人)とした。
秀吉はこの期に及んでもなお、密かに浅野を通じ盛政に(切腹の)短刀を授けようとしていた。
盛政は自身に対する秀吉の心遣いに感謝しつつも、丁重に浅野に断わりを入れた。
京都市中には、鬼玄蕃を一目見ようと大勢の見物人が集まって来ていた。
「おぉ!あれが世に名高い佐久間玄蕃盛政か」「あっ晴れ!」「さすが、噂の剛の者!」
と、次々に声が挙がったという。
盛政は、見物人を睨みまわし、これからは秀吉の世になることをパフォーマンスを通じて世に知らしめた。
秀吉に対して、せめてもの恩返しであった。
刑場の宇治槙島(まきしま=京都府宇治市槇島町)へ到着した盛政は、一切を取り仕切った浅野に深謝し、辞世の句を詠じた。
世の中を 廻りも果てぬ
小車は火宅の門を 出づるなりけり
顔色一つ変えることなく、従容と死に赴いた佐久間盛政。享年29才。短くとも太く華々しい生涯だった。
佐久間盛政は数々の佳話、逸話で、近年非常に注目を集めている武将。
今後このサイトで少しずつご紹介していきますのでどうぞお楽しみに。