「佐久間玄蕃盛政!! そなたの武勇をここに称え、加賀国、国主に任命し、20万石を与える。」
「玄蕃よ!! 良くやった!! 今後も、益々勤しむべし!!」
若き侍大将が、26歳という若さで、国持ち大名に出世した瞬間だった。
主君 織田信長は、厳しくもあり、優しさも、持ち合わせた人であった。
短い文(ふみ)であったが、自身への期待が、ひしひしと伝わる内容だった。
お館様(信長様)は、「天下布武」を掲げられ、戦の無い、理想郷を創ろうとされておる!!
我も、それに従い、日々精進するのみ!!
盛政は、「天下布武」という言葉が好きだった。
「天下布武」の武という漢字は、「戈」(ほこ)と「止」(止める)の2つの文字から成り立っている。「戈」(ほこ)は、戦で使われる武器で、戦いのことを表している。
その「戈」(ほこ)を「止」(止める)のが、武である。
この、武は、中国の古典「七徳の武」に由来している。
ここでいう、七徳とは、
1、暴力をしない(振るわない)
2、戦をしない(争わない)
3、国をより良く保つ(良い政治をする)
4、功績を挙げる(実績を作る・実績を残す)
5、民衆を安心させる(安心して暮らせる世の中にする)
6、周りの者と和を持つ・和を持って接する
7、財を成す(国を豊かにする・国の経済を発展させる)の事であり、この7つの徳を備えた者が、天下を治める者として、相応しい人物とされている。
信長は天下に、この「七徳の武」を布き(しき)、戦の無い世の中を創りあげるという、明確な決意表明を示していたのだ。
盛政は、そんな信長に、自身を重ね合わせていた。
織田信長を生んだ織田家と、佐久間盛政を生んだ佐久間家は、元々、尾張国(現在の愛知県)を拠点に、勢力争いをしてきた家柄である。
ライバル同士だった両家は、やがて、手を組み、共に助け合い、尾張の地で、対等な関係を築きながら、共に、繁栄をしてきた歴史を持つ。
やがて時代が進み、佐久間家は織田家を支える家臣団となったが、織田家の中でも、その扱いは、別格であった。
盛政は幼い頃から、この話を聞き、育ってきた。
盛政にとって織田家は、先祖との縁(えにし)が深い、掛け替えの無い存在であり、佐久間家と共に歩み、歴代の先祖の息が懸かった織田家の発展は、佐久間家の発展そのものと、同じであった。
盛政は、織田家に誇りを持っていた。
その織田家から、傑出したカリスマ、織田信長が生まれ、今、まさに、「天下布武」が実現する、一歩手前まで来ている。
盛政は自身が、織田家の発展に貢献出来ている事が、嬉しかった。
偉大な祖先に、少しだけ、近づけたような気がした。
③に続く